という訳で続いて自作短歌の投稿 第二弾。
今回はまさに会社が倒産しようと言う最中に詠んだ同じシリーズの三首だ。


- 冴え返る朝 桜はまだ咲かぬ さようなら、背を抜きたかった人
- もう一度春があれば越されてた背 ごめんね、どうか楽しく生きてね
この二首を詠んだのは2026年の2月だ。
会社の爆発(比喩表現)に先駆けて、3つある事業所のうち、まず1つ。
自分が所属している中高生対象の事業所から先に閉所することとなった。
まだ、梅がやっと蕾を膨らまそうかという寒い日々。
その中で「お前達は大丈夫だ」と、胸を張って送り出せる子達もいれば、まだこの先が心配で、我々大人の都合で彼らの居場所の一つを失わせてしまうことに、心苦しく思うような子達もいた。
正直、この時の自分はセンチメンタルであった。
改めてこの二首を振り返ってみても我ながらセンチメンタルだと思う。
はっきり言うとやや病んでいる。いや、酔ってない、これ?
言い訳させてもらうと、児童の引き継ぎ作業やら前倒しで進めていた事業所の片付けでとても大変な時期だったというのはある。なんなら、全部終わった後ちょっと燃え尽き症候群みたいになっている。
よって、この二首にはやや脚色が入っている。
まず、「背を抜きたかった」「もう一度春があれば抜かされてた背」というワードがある。
これは背(比喩表現)である。
児童らの中には小学生の頃から関わっていた子達も多くおり、彼らが中高生にまで育っているのだから、実際に目に見える部分の成長は、内面の成長と同様にまぁ素晴らしい。
この二首の様に、本当にあと少ししたら身長を抜かされてしまっていただろうな、と思う子もいる。
しかし、実際には「とっくに背を越されている子」「抜かされる前に身長の伸びが止まってしまった子(ドンマイ)」もいる。
だから、あくまで背(比喩表現)である。
比喩表現ではなく、慣用句といった方が正しいかもしれない。
一首目は、大人を抜きたかった子の視点を想像して詠んでいる。
一方で、二首目は成長を最後まで見届けることが叶わなかった大人の後悔を詠んでいる。
(自分自身の心情としては二首目である。)
抜きたかったのは背かもしれない。もしくは勉強とか、パソコンの技術とか、人格的な事かもしれないし、ひょっとしたら絵の技術とかかも。
きっとその子それぞれだ。
と、同時に自分はあの子らに、「いつか先生の背を抜いてやりたい」と思われる様な先生であれたのだろうか。
実際には歯牙にもかけられていなかった、というオチだったとしたらあまりにもお粗末すぎる。
この二首の価値はたちまち地に落ちるであろう。
きっと、大人が感傷に浸っているうちにあの子達はもう新しい環境で前を向いているのであろうね。
そしてその際には出来れば、楽しい日々を過ごしていて欲しい。
そう、勝手ながら今もずっと祈っている。──桜がとっくに葉桜になった今もまだ。
そして泣く泣く子ども達を巣箱から蹴落とした直後。
つまりは閉所日の後、我々大人たちは感傷に浸るまでもなく大事な仕事が残されていた。
個人情報の入った書類をシュレッダーで処分することだ。
不要なファイルの中身だけで無く、壁に貼られた掲示物を全て剥がし、個人情報に該当するかもしれないもの、裁断せず処分すると嵩張るもの、全て無心に裁断機にかけていった。

- 思い出を細かく砕いた紙屑を積み上げる夜 積もる現実
決して立派なものでない、弊社のシュレッダーの紙屑入れはすぐに満杯にな。
裁断口に紙をセットしてスイッチを押し、紙屑が溜まったら透明のゴミ袋に移し替え、またセットし直しスイッチを押す。
その際にゴミ袋から零れた紙屑は、どうせまた零れるからと、放置。
狭い事務室の中を無数のゴミ袋が埋め尽くし、床の何処を踏んでも足裏には紙屑が付着する。
その頃には頭は冷え、物を考える事が出来なくなっていた。
あの日の虚無は今も忘れられない。
生活が落ち着き、ある程度次の就職の目処がたっていった今、私のメンタルも落ち着きつつある。
まだ13~18の若者に背を抜かれる訳にはいかない。
私も前を向くべき時か。
背を抜かされることが楽しみだけど、まだまだ抜かされてなるものかと思う。
子どもに「先生」と呼ばれる仕事はそんな仕事だった。
ところで、皆がコソコソと作ってた寄せ書きみたいな奴(先生には内緒のつもりだったらしいがバレバレであった。隠し事がアイツら下手過ぎる。)。
あれ、まだ見てないんですがどうなったんですか??
……To be continued
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