暫くサイトから離れていた間に、会社が爆発した。
物理的に爆発したのでは無い。あくまで比喩だ。
また、SNS的な意味での所謂炎上も取り敢えずはしてない。しかし、ローカルニュースには一応なった。
(当然、詳しくは言えない。ご容赦を。)
まぁ、上司は警察のご厄介になる可能性はまだ有るらしいが、それはもうどうでも良い。ただ、納税の義務を持つ一人の日本国民としては然るべき処罰が下る事を望んでいる。
さて、一旦は会社都合での退職ということで晴れて無職の身だ。
強いて言うなら専業主婦だ。
という訳で、一時的に人生の休暇を満喫している訳ではあるが、会社は突然に爆発するものではなく。
いついつまでに爆発するんで頑張ってくださいね、的な通告はちゃんと有った。
問題の上司は心労を理由にさっさと逃げやがったが、我ら責任有る平社員にとって、爆発の被害が子どもたちまで及ぶことは勿論看過できるものでは無い。
少しでも爆発の被害を小さく収めるべく、勿論子どもたちに全く火の粉を降りかからなかったかというとそんな面の皮が厚い不遜な発言はとても出来ないものの、数ヶ月間奔走してきた。
利用児童や保護者への罪悪感。
イレギュラーな業務へのストレス。
今後の我が人生を見つめ直す事にだって多大な心理的負荷が掛かる。
そんな非常事態の中で、色々なことを考えねばならない苦しさの中で突然生まれた新しい趣味。
短歌だ。
児童との別れや、自分の人生。自分の軸。仕事にめり込み充分に向かえて無かった我が娘。そして、それでも続いていく日常に。
5 7 5 7 7 の定型句に収めることは、一見突然芽生えた新しい趣味の様で、私の内面に向き合う過程に一役立っていたのかもしれない。
一過性のブームとして終わってしまうか、持続するかはまだ分からないが、取り敢えず今完成しているものを折角なのでここに載せていく。
ブログの復帰の為のリハビリにも丁度いいだろうから。

- 雷は少女ら曰く夏に向く 小シュトラウスのオペレッタ選ぶ
- 雷光が置いて疾りし雷鳴とウィーンを離れた袖で落ち合う
- シャンパンを飲める歳だね 雷の響輝は遥か 思い出に酔ふ
- 「年末に演る曲らしいよ、本来は」「え、忠臣蔵と同じ枠なの!?」
という訳で一つ目は
連句『喜歌劇「わたしたち」セレクション』
私が高校生の時に吹奏楽コンクールで演奏した某喜歌劇の某吹奏楽アレンジがモチーフの短歌連作である。
曲名はお分かりだろうか?
そう、喜歌劇「こうもり」セレクション である。
知らない方の為に軽く解説しておく。
学生時代に歌劇「アイーダ」などは習わなかっただろうか?
歌劇(横文字でオペラ)は、台詞や物語の大部分を歌で担う演劇形態の一種である。
ミュージカルの古典的なものをイメージをして頂ければ概ね間違いなかろう。
更に喜歌劇(オペレッタ)は、歌劇と比べてコメディ的な要素が強く気軽に楽しめる物を指す。
ウィーンのワルツ王と称される『ヨハン・シュトラウス二世』(同じく作曲家であった父と区別する為に『小シュトラウス』とも呼ばれる。)が劇中歌を手掛けた喜歌劇「こうもり」は、ウィーンでは年末に公演される事が定番となっているほど、現地では人気の演目なんだそうだ。
その劇中歌と、同じく小シュトラウスが手掛けたポルカ「雷鳴と電光」を吹奏楽アレンジとして編曲し、メドレー的な感じで1曲に纏めたものが、喜歌劇「こうもり」セレクションだ。
https://share.google/sM82F54GPaeAMdhuF
高校一年生の時に演奏した思い出の曲を今回短歌に詠んだという次第だ。
打楽器担当であった私は、当時シンバルを担当していた。
曲を聞いてみたらお分かり頂けるかと思うが、この曲におけるシンバルは圧倒的花形だ。美味しいポジションと言うやつだ。
というか、シンバル以外の打楽器たちティンパニ、スネアドラム、バスドラムを担当する各奏者も、相応の実力が求められる打楽器奏者にとっての関門と言える曲である。
この曲が6年間の部活動の中で、印象深いと感じている理由が主に2つある。
一つ目は、私がこの曲が切っ掛けでシンバルという楽器にハマったから。
二つ目はこの曲が、現在所属している社会人バンドにまで縁を持ち込む程執着している相棒との出会いの曲だからだ。
相棒──彼女はこの曲でバスドラムを担当していた。
バスドラムとシンバルは、オーケストラや吹奏楽ではニコイチの存在だ。
特に演奏する為の場所が狭い歌劇や喜歌劇では(ピットの中にオーケストラが全部押し込まれるため。)、1人の奏者がバスドラムとシンバルを兼任することもある位である。
また、喜歌劇「こうもり」セレクションを構成する1曲に、ポルカ「雷鳴と電光」がある。
タイトルの雷鳴と言うのはバスドラムを、電光と言うのはシンバルの音をそれぞれ指している。
確かに会場に切り込む様な鋭いシンバルの高音は稲妻を想起させる物だし、シンバルから遅れて観客の体を振動させるバスドラムの低音は、雷の音を思い出させるには充分な圧が有る。
当然、曲中では彼女のバスドラムと常時タンデムを組んでる状況であり、練習の時間は常に一緒に過ごしていた。
今も何となく、シンバルは私、バスドラムは彼女という担当が何となく出来ている。
と同時に、今でも豪雨の日に外で雷の音が鳴っていると、ついこう考えてしまうのだ。
「雷なんて怖くないよ。だって私たちが落とすものなんだから。」と。
そもそも、学生時代の大半いつ背後から銅鑼が鳴り響くか分からない環境で過ごした私にとって大きい音と言うのは慣れ親しんだ物でしか無いのだが。
そんな私も彼女も、いつしか共にアラサーだ。
それぞれ家庭も持っている。
彼女がどうだかは知らないが、私は未だあの日に自分達が落とした雷に囚われている。
だからこそ、新幹線に乗ってまで楽団に顔を出すし、例え仕事が潰れかけていて直接の参加が難しくても出来ることはする。やれる事はやりたい。
だって、彼女と舞台の下手の袖で笑い合ってる時が一番 素の自分であり、彼女と一緒に舞台に立っている自分が一番カッコイイと思ってるのだから。
そんな思い出を託した連句。
喜歌劇「こうもり」セレクションを知らない人が見るとちんぷんかんぷんだろうが、お気に入りの作品となっている。
曲自体もカッコイイ為、是非シャンパンでも飲みながら聴いてみて欲しい。
……To be continued
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