※こちらの記事は作品中に描画されていない同性愛に関する妄想が含まれています。
八咫烏シリーズ、文庫版最新刊(R6,11当時)
「烏の緑羽」を読破した。
八咫烏シリーズとは、阿部智里先生のファンタジー作品シリーズである。
「山内」という奈良~平安時代の日本を模した世界の中で暮らす、人間に変化できる八咫烏たちを描いた作品だ。
先程はファンタジーと申したが、ファンからは
「進撃の巨人や宝石の国と同類」
と揶揄される様な作品なのでまぁお察し下さい。
また、fgoでメインシナリオ2部6章が配信された際には「奈須きのこ先生、八咫烏シリーズ読んでる?」と一部の界隈で話題になった。
この辺が好きなら是非とも本屋で探して頂きたい。
2024の4月からNHKでアニメ化されており、この項の起稿時には確か再放送がされている筈だ。
単行本自体は発売日直後に購入した
(その際京極夏彦先生の新発売文庫本も売っており、「(凶器売ってるな〜)」と思いながら書店を歩いた)
……のだが。
fgoの奏章3(アプリゲームの期間限定のメインシナリオである。)が期間までに終わりそうに無かったので焦って終わらせた事から、実際読み始めるのが少しばかり遅くなってしまった。
そういう訳で少しばかり出遅れてしまったものの、買っただけでテンションが上がること、いつでも読めることが紙の本の良い所であり、積読をしても誰も怒らない事が読書界隈の居心地の良さの理由である。
という訳で休日の間にいそいそと本を開いたのであるが、1度読み始めれば先が気になり手が止まらない。
重い展開も続く中、途中で疲れず最後まで読み切ってしまえる辺り、八咫烏シリーズと自分はかなり相性が良いと言えよう。勿論、阿部智里先生が美しく読みやすい文体をお書きになるという事実がそこに前提としてある。
友人もこの作品を好んでくれており(沼に落とした)、互いに読破した後は感想合戦をするのが恒例となっている。
その感想合戦は決してお淑やかなそれではなく、暗い読後感、有り体に言えば読後のしんどさを明るく笑い飛ばしてしまおうとでも言うような、オタク構文全開の小気味良いものとなっている。
例えば分かりやすく自分の発言をまとめるとこうだ。

比較的自分と感性が近く(具体的に言うとオタクとしての痛さ)、既読済みの方であれば笑って頂けるのではなかろうか。
誓ってこれは自分一人の発言である。
許可を取らずにここに友人の感想を勝手にまとめる様なことはしない。
しかし、感受性が高く、私より読書経験が豊富で博識な彼女が語彙力を失いつつも、オタクらしさを爆発させていた様は非常に痛快であったとだけ言わせて頂く。
この歳になると同じ温度感でオタクできる親友は希少である。
閑話休題
今作は、金烏(日本で言うと天皇、つまりは八咫烏一族の君主の称号だ)の兄、長束からの視点から始まる。
八咫烏離れした胆力と頭脳を持つ部下の路近の扱い方に気を揉む長束は、宗家(所謂王族)の近衛隊養成所の副院長の清賢から、かつて雪哉(シリーズ全体を通しての主人公)に敗北し左遷された翠寛という男を紹介される……という筋書きだ。
長束の視点で始まるこの物語、しかし読めば読むほど、今作の主人公は翠寛だと感じざるを得なかった。
ちなみに翠寛は親友の推しの1人である。弥栄(第1部最終巻)の頃から、翠寛に着眼していた彼女の慧眼に感服した。
「烏の緑羽」
緑という色が暗喩するものは一般的には自然や植物ではあるが、一方で人間の3歳児までの幼子の事を「嬰児/緑子」と呼んだり、黒い艶やかな毛髪のことを「黒の緑髪」と呼んだりする。健康的な若葉からの連想であろうが、若々しさや艶やかさを意味する色でもある。
今作、路近と翠寛の幼少期が描かれ、翠寛が長束を育児(?)する様子も描写されているのだがタイトルの、「緑羽」とは決してそれだけの意味ではないだろう。
羽緑。みどり。翠寛。
彼は幼少期から身分に寄って様々な名で呼ばれていた事が本作で明かされるが、どの名前にも“緑色”を表す言葉が使われている。
また、翠寛の外見の描写として、遊女であった母親譲りの美しい黒髪であることが阿部先生の素晴らしい語彙力と表現力で語られている。
更に眼鏡に緑の留石が使われていることは前々から描写されており、本作の主役として翠寛が意識されていることは間違いないだろう。
(しかもこの眼鏡、今作で路近から贈られたものだということが判明していた。路近、お前そういうこと出来るんか??)
やはり本作を読んで驚かされた事は、翠寛の半生、そして翠寛、路近、清賢の関係性の深さだろう。
まず、翠寛の半生であるが、なんと生まれが『地下街』である事が判明した。
八咫烏シリーズの読者でない方に『地下街』が何かを説明すると、『山内』の最下層の人々が暮らすスラム街というか裏社会といった表現をするとイメージが湧くのではないかと思うのだが、兎に角そういった表の法が機能していない、力と義理人情といった独自のルールが支配する無法地帯の事を本作品では『地下街』と呼ぶ。
その地下街から生まれ、翠寬は商家、寺院、武士の養成所たる勁草院へと名を変え、生きる場所を変えていくこととなる。
読者は本作品で、今まで宮中や郷士(地方貴族)の事を中心に山内世界を見せられていたのが、翠寬の視点で山内の全体的な世界観を見せられることとなった。
まさか、過去に本シリーズの主人公が価値観の違いから敵対して左遷させた男が、誰よりも多面な山内を知っていたとは。
これまで雪哉の視点から見てた分、どうしても雪哉に感情移入し、敵対者を間違いだと思っていた読者━━━━━━━否、恥を忍んで“私”と主語を改めさせて頂く。
私はここで初めて主人公であり、山内の改革を急ぎ進めている雪哉こそが間違っていたのかもしれないという可能性を突き付けられた。
若き俊英だと思われた雪哉が、まだ十分に世間を知らない青二才かもしれなかっただなんて。
耐えられなかった読者もひょっとしたら居たかもしれない。
それは奇しくも第一巻のあせびの君を思い起こさせる展開である、とも言えるかも?
そう思わされた小説のラストは、前巻の『追憶の烏』にて、精神的支柱を喪い絶望にうちひしがれる雪哉と時間軸を同じくし、その雪哉を抜きにして団結する長束達が描かれ次巻に続く。
思惑が乖離していく長束陣営と雪哉陣営、漂う不穏な空気に、ほぼ確定している“山内は滅びる”という前提が我々読者に重くのしかかる。
果たして雪哉はいかにして雪斎となるのか。
山内は如何ようにして滅ぶのか。
続刊が待たれる。その時私はきっと寝る時間を惜しんで読み耽るのだろう。
コメントを残す